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被害者の声

■日本へ強制連行・労働の被害者の証言
北海道の鉱山へ強制連行、過酷な労働と暴行の日々。

劉 連仁
劉連仁さんの顔写真 私が32歳のとき、役人が来て「役所へ来い」と言われ、青島へ連行され、軍事訓練のようなことをさせられました。青島から門司港へ連れて行かれましたが、船中での食事はひどいもので、1日に、とうもろこしで作った団子のようなものと玉葱一個だけでした。
北海道で強制労働をさせられました。鉄条網の囲いの中の宿舎では、寝具は古い掛け布団一枚、作業着は青島で支給されたものだけでした。労働は重労働で、死亡事故も発生し、疲れて休んだり、時間内に作業が終わらない時は暴行の制裁を受けました。風呂もなく、休日もなく、賃金は一銭ももらっていません。
1945年7月頃、私は耐え切れずに、仲間四人と逃走し、四人は捕まりましたが、私は12年間山中で原始生活を送り、終戦も知りませんでした。発見されたあと帰国、1958年に日本政府に声明を発表、謝罪・賠償を要求しました。
劉連仁(強制連行・東京第1次)訴訟について詳しく知りたい方はお進みください。

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■南京虐殺による被害者の証言
南京虐殺で危うく命はとりとめたが……。

李 秀英
李 秀英さんの写真 私は18歳で結婚し、妊娠していた時、日本軍が南京に入って来ました。難民区にあるアメリカ人の学校の地下室に60〜70人ほどの人たちと避難していましたが、日本兵が地下室に入って来ました。私は、父から日本兵によって女性が強姦されていることを聞いていましたので、死んでもはずかしめは受けまいと頭をコンクリートの壁に打ちつけて気絶し、幸いその場は助かりました。ある日の午後、日本兵の一人が私の服を脱がせようとしました。相手のすきを見て、私はその兵の銃剣を抜きとり立ち上がりました。日本兵たちが駆けつけ、私の顔や体をめった斬りにしました。37箇所もの傷を負った私は気が付いた時は病院で、危うく命をとりとめましたが死産でした。私の歯は義歯となり、右頬の傷跡はいまも雨が降ると痛みます。日本政府は反省し、賠償すべきだと思います。(聴取要旨)
731部隊・南京大虐殺・無差別爆撃訴訟について詳しく知りたい方はお進みください。

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■731部隊によって父親を殺害された被害者の証言
731部隊で父は殺され、一家の生活は破壊された

王 亦兵
王 亦兵さんの写真 大連で写真館を経営していた父は、天津で「地下活動をしていた」ということで、日本の憲兵に逮捕されました。叔父から父親は細菌工場に送られたと聞きましたが、それきり帰ってきませんでした。最近、私は出版物によって、父親が日本軍の731部隊に連行されたことを知りました。
私は叔父の助けでようやく小学校を卒業しました。母と妹たちは農村にいましたが、父親がいなくなったため親戚の人から恵んでもらったり、農地を売って暮らしていました。最後には物乞いまでしました。このように、父親を奪われてしまったことにより、私たち一家はたいへんな貧困を強いられました。日本政府は、こうした行為を反省してもらいたいし、私たちの損害に対し補償をする責任があります。
731部隊・南京大虐殺・無差別爆撃訴訟について詳しく知りたい方はお進みください。

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■従軍慰安婦として連行された被害者の証言
5ケ月間、日本兵に強姦され続けた15歳の少女。

李 秀梅
李 秀梅さんの写真 日本兵は震え泣き叫ぶ15歳の私を引きたてて、日本軍の駐屯地へ連れてゆき、洞穴式の住居に監禁しました。中にはすでに2人の女性が入れられていました。最初に赤ら顔の隊長と呼ばれる日本兵が来て私たちを強姦しました。その日から毎日のように、日本兵から強姦され続け、少しでも抵抗すると殴られたり蹴られたりしました。私はベルトで打たれたとき、バックルが右眼に当って失明しました。外に出られるのは、大小使用の桶の中身を捨てたり、水を汲むときだけでした。食物はとうもろこしや冷えた粟がゆなどで、無い日もありました。着るものは連れてこられたときのものだけで、強姦が続くときは服を身につける暇もありませんでした。ようやく釈放され村に帰りましたが、母は自殺していました。日本政府の心からの謝罪、苦痛への賠償を求めます。(聴取要旨)
「慰安婦」訴訟について詳しく知りたい方はお進みください。